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更新日:2024年5月14日

名勝おくのほそ道の風景地

松尾芭蕉(まつおばしょう)は元禄(げんろく)2年(1689)、江戸を出立(しゅったつ)し美濃国(みののくに)大垣(おおがき)に到着するまでの半年間、東北・北陸の名所旧跡や歌枕を訪ね、紀行文『おくのほそ道』を完成させました。この作品の影響により、ゆかりの地が多くの人々によって守られ、現在まで良好な景観が保たれてきました。これらを相互につながりをもつ一連のものとして評価したのが国指定名勝「おくのほそ道の風景地」です。本市では、平成26年10月6日、「壺碑(つぼの石ぶみ)」「末の松山」「興井」(おきのい)の3か所の歌枕が指定されました。いずれも、『おくのほそ道』当時の雰囲気を彷彿(ほうふつ)させ、往時を偲ぶことができる風景地であるとの評価を受けたものです。

壺碑(つぼの石ぶみ)

壺碑写真多賀城南門跡のすぐそばに立つ古碑です。「おくのほそ道」の旅で碑と体面した芭蕉は、この碑だけは変わらぬ姿を留めているのを見て、「泪(なみだ)も落つるばかり也」と、感動の文章を『おくのほそ道』にしたためています。

現在、多賀城碑と呼ぶこの碑は、江戸時代初めに発見され、すぐに「壺碑」の名で呼ばれました。「壺碑」とは、平安時代の終わり頃から歌に詠みこまれた歌枕で、西行(さいぎょう)や源頼朝(みなもとのよりとも)などの和歌で有名です。こうした著名な歌枕の発見は大きな話題となり、当時の文人や学者の注目するところとなりました。徳川光圀(とくがわみつくに)は、『大日本史』編さんのために派遣した家臣の報告で、碑が苔むした状態であることを知り、仙台藩主伊達綱村(だてつなむら)に対し、碑を保護する覆屋(おおいや)の建設を勧めます。これを受けて間もなく覆屋が建てられ、今日に至るまで碑が守られています。

興井(おきのい)

興井写真末の松山の南に位置し、直径20メートルほどの池の中に岩が露出しています。元禄2年(1689)5月8日、「おくのほそ道」の旅で芭蕉は壺碑と対面した後、野田の玉川を経て興井を訪ねます。

ここは『千載和歌集(せんざいわかしゅう)』に見える二条院讃岐(にじょういんさぬき)の「わが袖はほひにみえぬきの石のこそしらねわくまぞなき」や、『古今和歌集(こきんわかしゅう(』小野小町(おののこまち)の「おきのゐてをやくよりもなしきはこしまべのかれなりけり」などで有名になった歌枕です。

仙台藩4代藩主伊達綱村の時に歌名所として再整備され、さらに藩では、八幡村(やわたむら)の肝入(きもいり)を代々「奥井守(おくのいのもり)」に任命し管理させるなど、手厚い保護の体制をとっていました。

末の松山(すえのまつやま)

末の松山写真八幡(やわた)の宝国寺(ほうこくじ)裏手にある標高約8メートルの丘で、推定樹齢490年、樹高約19メートルの2本のクロマツが聳(そび)えています。元禄2年(1689)5月8日、「おくのほそ道」の旅で壺碑と対面した芭蕉は、野田の玉川、興井(おきのい)を経て末の松山を訪ねています。

松の間に墓が点在する光景を見た芭蕉は「はねをかはし枝をつらぬる契(ちぎ)りの末も、終(ついに)はかくのごときと、悲しさも増りて」と『おくのほそ道』に記しており、愛の誓いの象徴となった歌枕「末の松山」-変わらぬ男女の契りも、結局は眼前に見るような墓の下に帰してしまうものであると、無常(むじょう)を感じています。

お問い合わせ

教育委員会事務局文化財課文化財係

 〒985-8531 宮城県多賀城市中央二丁目1番1号

電話番号:022-368-5094

ファクス:022-309-2460

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